2008年5月アーカイブ
一時は、連続ドラマで話題になった、1リットルの涙。
突然読みたくなった。
近隣の図書館で借りてきた。文庫本。
今日、仕事の帰り、電車の中で読み始めた。
途中、御茶ノ水駅で快速に乗り換えるつもりが、せっかく座れた各駅停車で、読み続けた。
乗り越すことはなかったが、ちょうどクライマックスで、読むのを中断したくなかった。
そのまま地元駅のホームのベンチで読み続けた。
電車が何台も到着し、そして、発車していくのだが、本を閉じて改札を抜けることができない。
主人公は間もなくなくなってしまうことが、残りのページの厚さで分かる。その秒読みの命を、最後まで見つめたくなる。
結局最後まで読み切った。昼間は暑いとはいえ、この時間になると、結構電車の起こす風が冷たい高架駅のホームで、結局最後まで読み切った。
生々しい闘病記録。
人は、自分より不幸な人を見ることで、それを大きな声では言えないのだが、勇気をもらったり、優越感から自分が幸せに思えてくるという一面は確かにあると思う。そういう自分を汚いと思うものだが、多少はその考えがあることは否定できない。しかし、この本を読んでいると、そういうものを抜きにして、いろいろ考えることがある。感じることがある。心の中から、湧き出るものを感じる。人として考えるべきものを思い出させてくれる。
難病の少女は、二十歳そこそこでこの世を去る。食事から排泄まで一人ではできず、意思を伝える手段も奪われていく中で、彼女は自分がこの世に生きていることの価値を知ろうとする。その価値は、ドラマを見た人や、またこのようにホームで本を読み続ける人に対して大変な価値を示している。それが、死後になってわかることもある。
しかし、そこまでこの本の価値をきっかけに彼女自身の「価値」を高めたのは、必死に書き続けた日記であり、運動障害でまともに書けなくなった字を判読して原稿用紙に落とし、まだ彼女の命があるうちに本に仕立て上げた彼女の母の存在がある。
日記を書いた主人公から見た母の姿と、母が巻末で書いた自身の正直な気持ちと、担当した主治医の目から見た母の姿。この3面があって見えてくる母親の姿。これ以下でもこれ以上でも表現できない母親というものの姿。
今更だが、医者になりたいと思う。
....という本を、ギャル曽根が出版するのだと言う。
思わず、買いそうになってしまった。
というのは、この本を読めば、沢山食べても、太らないでも済むかも知れないと思ったからである。
しかし、冷静に考えれば、誰でも分かるように、
ギャル曽根自身が太らない 秘密を 教えます
であって、
読者が太らない 秘密を 教えます
ではない。彼女の特異体質(脂肪燃焼しやすい、食べたものを未吸収のまま出してしまい易い)が理由なのであって、この恵まれた?体質を真似する事は出来ない。
お客様の勘違いで儲かる商売もあるのかもしれない。
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