2008年2月アーカイブ
冷凍庫をチェックしていたら、今話題の食品メーカの冷凍食品が出てきた。
裏面をチェックすると、「原産国:中国」。
お客様相談室のフリーダイアルに掛けてみた。
呼び出し音が鳴るか鳴らないか位のところで、すぐ、係りの人が受話器を取ったので、一瞬、言葉に詰まる。
製品名を告げ、
「これって、食べても大丈夫ですか?」
食品を目の前において、食品会社に自分から電話を掛けて、「これ、食べても大丈夫ですか?」っていう聞き方をしている自分にふと気が付いて、これって、結構、信じられないくらいまずい状態なのではないか、と感じる。
相手は、受話器を口でふさいで、奥で、モゴモゴと男性と相談をしている様子が伝わってくる。
程なくして、
「はい、その製品は、確かに中国で作られておりますが、今話題になっているのとは違う工場の製品ですので、安心して召し上がっていただけるのですが。」
ここで、「召し上がっていただけます。」ではなく、「のですが。」という言葉で終わったので、まだ、続きが有るのかと思って、黙っていたが、何も出てこなかったので、礼を言って受話器を置いた。
困ったものです。
このシウマイは、捨ててしまうかも知れません。
どうも、食べ物を捨てる事に、強い抵抗があるのですが。
http://www.musashino-culture.or.jp/a_museum/
お知り合いが、↑こちらに行かれた話をブログ日記で拝見して、これは、行かないと。。。。。と、焦って、今日は慌てて行って参りました。
こんなにたくさんの作品を見れて、わずか100円というのは、何か間違っているのではないかと思ってしまいます。
私も写真を撮るのは好きです。旅行に行くと数百枚の写真を撮りまくります。
景色は時間との戦い。雲が動いて陽がさすのを待つ、車が切れるのを待つ、人が居なくなるのを待つ。
子供を撮る事も多いです。人を撮ることも。
一人の人を撮る時には、私と其の人との人間関係が写真に出ます。
写真に写るものは、私とその人との関係だと思います。
土門は、子供を撮影するときには、ポケットにお菓子を詰め込んで、撮影に臨んだのだそうです。
多数の人間を撮る時には、まず自分が、其の人たちのわに完全に入る必要があります。
土門の写真には、一枚で、深い味わいのあるものが少なくない。
特に、白黒の写真に、そういうものが多い。
最近のデジカメに慣れた世代には撮れないもの。
そんな感じがしました。
来週月曜日には終わってしまいます。
お時間が許せば是非行かれてください。
また撮影の旅に出たくなりました。
最近は、厳島神社周辺で撮った物に気に入ったものが多いです。
広島は被写体がたくさんありました。
お知り合いが、↑こちらに行かれた話をブログ日記で拝見して、これは、行かないと。。。。。と、焦って、今日は慌てて行って参りました。
こんなにたくさんの作品を見れて、わずか100円というのは、何か間違っているのではないかと思ってしまいます。
私も写真を撮るのは好きです。旅行に行くと数百枚の写真を撮りまくります。
景色は時間との戦い。雲が動いて陽がさすのを待つ、車が切れるのを待つ、人が居なくなるのを待つ。
子供を撮る事も多いです。人を撮ることも。
一人の人を撮る時には、私と其の人との人間関係が写真に出ます。
写真に写るものは、私とその人との関係だと思います。
土門は、子供を撮影するときには、ポケットにお菓子を詰め込んで、撮影に臨んだのだそうです。
多数の人間を撮る時には、まず自分が、其の人たちのわに完全に入る必要があります。
土門の写真には、一枚で、深い味わいのあるものが少なくない。
特に、白黒の写真に、そういうものが多い。
最近のデジカメに慣れた世代には撮れないもの。
そんな感じがしました。
来週月曜日には終わってしまいます。
お時間が許せば是非行かれてください。
また撮影の旅に出たくなりました。
最近は、厳島神社周辺で撮った物に気に入ったものが多いです。
広島は被写体がたくさんありました。
写真が面白くなり始めた頃、逆に、写真につまらなさを感じてくるときもありました。撮るだけだからです。絵だったら、いろいろ、上書きしたり、直したり、それって自分が相手に働きかけて変えていくものです。
でも、写真は、そのまま、あるものを、ただ、受身で撮影するだけです。
お寺の石畳の上に偶然枯葉が一枚落ちていたとして、それをそのまま、其の位置で撮るのが写真です。
どうせだったら、こっちの向きで落ちていた方が美しいなあ、といって、枯葉の位置を修正したら、それって、やっぱり画面に出てしまうのではないかと思うんです。だったら、写真は、自分の働きかけって、許されない、つまらない表現手段に過ぎないのではないかな、って言う感じ。
でも、土門拳の写真を暫らく見ていると、自分もまた、撮りたくなりました。
さて、誰かモデルさんになってくれないかな。
でも、写真は、そのまま、あるものを、ただ、受身で撮影するだけです。
お寺の石畳の上に偶然枯葉が一枚落ちていたとして、それをそのまま、其の位置で撮るのが写真です。
どうせだったら、こっちの向きで落ちていた方が美しいなあ、といって、枯葉の位置を修正したら、それって、やっぱり画面に出てしまうのではないかと思うんです。だったら、写真は、自分の働きかけって、許されない、つまらない表現手段に過ぎないのではないかな、って言う感じ。
でも、土門拳の写真を暫らく見ていると、自分もまた、撮りたくなりました。
さて、誰かモデルさんになってくれないかな。
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